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靴底
 20歳だったか21歳だったか、交通事故で右足を骨折して、以来、右足首は左足首に比べて曲がる角度がいまいちで、筋肉も右足の方が少なくて細い。利き足も左になった。
 最近、太ってきたのでなるべく歩くようにしている。お昼のお弁当も、わざわざ離れた店に歩いて買いに行ってみたり。今日、たまたま靴の裏を見たら、驚いた。
靴底_e0137995_08353167.jpg

 上が右、下が左。左足の靴底の方が、明らかに見るからに減っているのだ。この減り具合の不均衡は異常だな。
 手もそうだ。前を向いて歩いている自分の視界に、自分の手が入り込む。右、左、と交互に視界に入る自分の手を意識したことがあるだろうか。あるとき、私は気付いてしまった。「あれ、右の手の方が振れてない」。普通に歩いているつもりで、右手も左手も同じように振れていると思っていたのに、明らかに左の方が大きく振れて、右手は視界の隅にギリギリ入る程度。
 なんとまあ、アンバランスな体になってしまったものだろうか。


 



# by hiroafukasawa | 2017-05-24 08:46 | 雑記帳
竹原ピストル
 テレビを見ていたら、今注目のシンガーソングライターの竹原ピストルがスタジオライブをやっていた。その番組の中で竹原ピストルは「俺だけにしか歌えない歌を歌いたい」という趣旨のことを言っていた。また、「お客さんに『感動した』と言ってもらえるのはとても嬉しい。だけど結局、何のために歌っているかというと、自分が歌うのが好きだから」とも言っていた。私もテレビの前で、「そうそう、絵も一緒」とか思い頷いていた。
 音楽に関しては門外漢ではあるが、歌というのは、誰もがわかる言葉と文脈を、誰もが不快に思わないメロディーに乗せなければ、多くの人を感動させられないと思う。歌は、100人集めたライブならば100人に感動を届けることを目指すでしょう。でも、この「誰もが」というのは「チープ」と背中合わせなんだよね。その点、竹原ピストルはその声でずいぶん助けられていると思う。
 つまり、自分が歌うのが好きだからと言いつつも、言葉をメロディーに乗せている限り、宿命的に「誰もが」を意識しなければならない。
 絵も似たようなことが言えるけれど、歌に比べたら、ライブ感のない絵にそもそもそれほど人を感動させることができるのかっていう話もあって、極端かも知れないが例えば個展会場に100人の来客があったとして、その内の1人でも感動させることができれば成功かも、と思ったりもする。

 一方、新聞に、歌人の川野里子さんの講演の再録が載っていて、その中にこんな言葉があった。少し長いが引用すると「短歌には二つの方向性がある。一つは、私たちが生きる荒海のような時代の奥まで潜り、何が起こっているのかを最先端の感受性でしっかりと読み取ること。もう一つは、その荒海の底から浮上して、人間の根源的な存在の温かさや美しさ、深さと出合い直し、もう一度つかみ取ろうとすることだ。その二つが相互に働き合いながら、人間というものをさらに深い眼差しで見つめ、表現することだ」。
 難解かも知れないが、私はとても共感を覚えた。私なりに要約すると、「まず現代社会を現代人の感覚で捉えること。そしてそれを踏まえて普遍的なものへ昇華させること」というような意味だと思う。この方のがすごいのは、そもそも形から入っただけの普遍性など相手にしていないところ。

 絵もね、きれいな風景や美しいモデルさんをきれいに写生するとかは、普遍的な美のテーマかも知れないけれど、「誰もが」わかる絵である限りはチープで面白くないと感じてしまう。だからといって、何のバックボーンもなく抽象画に飛びついても、観る人に説得力を持って感動させることはできない。もちろん独りよがりの絵には何の感動も覚えない。
 一旦自分の中に潜り、底まで行って、そこで何かを見つけて、もう一度浮かび上がって画布に向かう。それを繰り返して、やっと1枚2枚、人に感動を与えられる絵ができるかどうか・・・。

 凡人の私は、自分の中に潜ってみても何も見つけられず、どこまで潜れば底なのかもわからずにいる。そもそも潜ったつもりでいるだけで、実は荒海の海面に近いところでただ一生懸命、手の届かない底を探しているのかもしれない。そうやって探し続けて、一生を終えるのかも知れない。



 

# by hiroafukasawa | 2017-05-20 16:25 | 雑記帳
飽きてきた
 先日、ぼんやりテレビを見ていたら、最近の若い子たちは喫茶店などに集まっておしゃべりをするらしい。SNSで人の悪口を言ったりすると画面を証拠に残され、あとあと大変なことになるから、直接会って話すようになってきているそうだ。革新的なコミュニケーションツールが、グルッと回って喫茶店に戻ってきたわけだ。
 私も、ここ数年、このブログやtwitter、Facebookへの書き込みが大きく減った。なんかつまらなくなってきた。「アラブの春」の頃は、「SNSが世界を変える」とワクワクしたが、結局身の回りには、当たり障りのない情報しかなかった。現実世界で北朝鮮がミサイルを撃っているのに、twitterでは相変わらず美味しいスイーツの写真が並んでいる。一般市民の情報発信なんてそんなもの。ちょっと尖ったり、道を外れると叱られるので、常にいい子でいなければいけない空間。しかるべき識者のしかるべきコメントだけを追うようになって、自分自身は毒にも薬にもならないことだけを選んで書き込んで・・・。正直飽きちゃいましたね。

 ただ、ネットにはマスコミが報道しない真実もころがっているので、それを探して読むのは楽しいです。


 

# by hiroafukasawa | 2017-04-11 18:13 | 雑記帳
500円玉イラストのその後
 最近、500円玉のイラストにコメントが付かないな、と思ってググってみた。一時期、「500円 フリー イラスト」でググると、私のこのブログが上位に表示されていた。ところが今、このイラストと同じくらいのクオリティのフリーイラストが増えたようで、私のは1ページ目にも表示されなくなった。というわけで、500円玉イラスト目当てで訪れる人が減ったようだ。
 そろそろ「平成29年」版も作ってアップしようかと思ったのだが、どうやらその必要もないようだ。なんだ、よかったよかった。余計な手間が省けたよ。ハハハハハ。


ハハハ。


 

# by hiroafukasawa | 2017-02-22 16:23 | フリーイラスト
0って
 前にも書いた気がするけど、サムホールのこと。以前書き込んだ時は、ちょっと勘違いしていたかも知れないので。
 キャンバスの大きさで、SMと書いてサムホールと呼ぶのがある。英語で書くと「thumb hole」となるらしいが、そもそも和製英語らしい。「親指の穴」という意味で、何でも昔、日本では底に親指を入れる穴が開いた画箱が売られていて、それにすっぽり入る大きさのキャンバスだからサムホールと呼ばれるようになったらしい。本当はTMのはずなのに、片仮名のサムからSMになっているのが和製英語ならではか。
 なので、サムホールという大きさは日本にしかない規格となった。まあ、そもそも日本で使われるキャンバスは日本独自の規格なので、日本でしか通用しない。西洋のキャンバスの端数を四捨五入して尺寸に直し、さらにそれを四捨五入してセンチメートルに直したので、全然違う寸法になったという寸法だ。
 ちなみに私がどう勘違いしていたかというと、西洋で、チューブ入りの絵の具が開発され画家が屋外で油絵を描くようになって、その時使った親指の穴が空いたパレットがあって、そのパレットと同じ大きさのキャンバスのことだと思っていた。もちろん、同じ大きさの方が持ち運びに便利だから。でも違ってたようだ。
 それで、もう一つ気になることがある。F0号だ。今、日本で一般的に売られているのはSM、3号、4号、6号、8号・・・というラインナップだが、1号、2号もある。昔、2号で描きたくて画材屋で注文したことがある。5号とか7号とか抜けているのも気になるが、「0」って。「0」は「無」だからね。絵の価格は号単価だから、号2万円で4号の絵は8万円だけど、0号の絵は0円かよ、って思っちゃう。これはもう、最初からあった規格とは思えない。1号より小さい絵が必要で、あとから無理矢理設定した大きさじゃないのか。

 と思ってググってみたけど、ネット上では答えに辿り着けなかった。

 気になる。


 


# by hiroafukasawa | 2017-02-10 19:24 | 雑記帳